既視感

図書館からの帰り、借りた本を片手にうだるような日差しを避け木陰の道を歩く。図書館内には夏休みの子供たちが溢れていた。帰ってからもやることはたくさんある。なのに暑いというだけで体力を消耗する。車までのほんのわずかの距離でさえ歩くのが苦痛で、暑い、と吐き捨てるように意味も無くつぶやき、歩きながらうつむく。暑い…次に顔を上げた瞬間、視界が数秒前より開けている。アスファルトから立ち昇る陽炎、鬱蒼と葉を茂らせた木々、身体の芯まで響くような蝉しぐれ、刺すような痛みを伴う日差し。五感全てに働きかける強烈な夏。


祖父母の家の隣には田んぼがあり、広大な敷地を若い緑の稲が葉を揺らしている。何年か前に亡くなった祖父と姉は手をつなぎ、塀と塀の隙間にある秘密の近道を縫うように先に進んでいく。行く先は貸本屋。暑い…二人とも私が遅れ始めていることに気付いていない。こんな遠くの土地で迷っては、私はどうなってしまうんだろう。暑い!早く追いつかないと。


人生で体験すべきことはみんな終わったと、どこかで考えている。これからの人生はそれらの蓄積された体験を反芻するだけで、新しい体験を希求し行動することは無いと、どこかで満足している。今歩いているのは、今を経験するための行動ではなく、ただ家に帰るという目的のための手段に過ぎず、歩くことそれ自体は目的ではない。ではなぜ家に帰るのか?食事を作るため?掃除をして洗濯をしてちょっと仕事を手伝って?・・・それも目的ではない。では何が目的?ひょっとして目的など持っていない?


夏休み、いつも私は一人だった。友達も今日は公園に来ていない。呼びに行っても誰も出てこない。平屋の集合住宅が密集したこの地域は、真上から降り注ぐ熱射を遮るものが何も無い。家に帰っても誰もいない。夕方姉と二人になりたくない。父は遅くならないと帰ってこない。母は最近顔すら見てない。日が沈むまでこの暑さの中、どこに行けば良いんだろう?


日々を生きることは既にそれ自体が目的では無くなった。子供の頃は一日一日が目的だった。目の前に広がる濃い緑。夏の空。熱い空気。ふとそれが自分の身に起こっていることだと気付く。これを今日の体験だと記憶することに何をためらうのだろう?子供の頃のそれと何が違うんだろう?子供の頃は暑さの中で目的を失って立ちすくんだとき、こんなに頭は痛くなかった。これほどに倦怠感は無かった。常に身体のどこかに痛みを伴ってはいなかった。しかし真夏の空気の中で膨れ上がる孤独感の、不思議に心地よさを伴う悲しさと、強い既視感は昔と変わっていなかった。5歳の、9歳の私はそのとき、安堵と共に悲しさに包まれて一体何を視ていたのだろう。