『シーラという子』

トリイ・ヘイデン著。この本の続編『タイガーと呼ばれた子』も読んだ。久々の翻訳物はやはり、「おお、わかってちょうだいスウィートハート」だとか「あなたのその勇敢に孤独へ立ち向かう勇気を賞賛を持って誇りに思う」みたいな、翻訳特有の言い回し…というかおそらく、これ即ち英語特有の言い回しなのだろうが、どうもやはり日本の土壌に合わないあっけらかんとした感じで好きになれない。
それはさておきこの本は主人公の虐待され心を閉ざした少女シーラが、情緒障害児学級の教師である著者トリイの元にやってきて、心を少しずつ開いていく過程を描いたドキュメントなのだが、これを読むことになったきっかけはやはりゴシップ的興味であって、それ以上のものを求めていたわけでもなく、そういった心構えで読むにはあまりに不愉快な話であった。私の誤った性質ではあるのだけど、世の中全てにファンタジーを求め、美を求め、その裏に山積しべったりと汚れた裏の世界は敢えて見ないことにしている。知識としてそれらが、隠したところで確実に存在することも、やってはいけないことであり助長してはならないことだとも知っているが、それらを根絶しようと努力することも、他者に啓蒙することも無い。要は、世の中で最も多数派を占めるそういった傍観者のうちの一人、しかも傍観者代表のような一人が私である。もちろん自信を持って、そんな態度を「仕方が無い」と片付けるのが普通だと言う気は無く、むしろ口にすべきでもない恥ずかしい態度であるとすら思っているが、幼児への性的虐待、動物虐待、人種差別、部落差別、障害者差別、ひいては環境汚染、核拡散、戦争、飢餓、、、美を希求する私の心はそれらを扱うにはあまりに希薄にできていて、こういった類の本を読むだけで、読んだこと自体無意味なことだとまでは言わないが、あまりに醜悪な人間のある意味知りたくもない本質に触れ、吐き気すら催した。
しかしそれはあくまで私の捉え方であり、この本自体は意義のあるものだとは思う。


さて、もう一冊『シーラたち』という、トリイ・ヘイデン著書を読んだ人たちの感想文集というのも一緒に借りたのだが、それは3ページで読むのをやめた。賛辞がならび、自分と照らし合わせ、シーラと比べると私は何と恵まれた…だとか、自分の不幸はシーラに比べれば屁でもない…だとか、まあなんというか、先に私が並べた各々の人間社会の恥部はこういった人たちが考えればいいのであり、あからさまに単純思考ができる「感想文集の著者」たちに胃もたれを感じながら感心した。