眠れぬ夜


このブログのどっか最初の方でも書いたかも知れないが、世の殆どの人がどこかに偏執狂的問題を抱えているであろう事と同じように、自分もそうであり、時としてひどく神経質になる事がある。しかしその発作的な絶望感の頻度も強さも、以前と比べ衰え、現在は一般的に言う健常な精神をきっと備えたであろう私は、むしろあの感覚を芸術的感性の発露と捉え、その絶望の闇さえも、熟しきらず青臭いほどに若く痛々しい繊細な、感覚表現の一部であったと美化することすらある。
しかし自分の胸に宿る闇がどんどん大きくなり飲み込まれる渦中、今現在こうしてその感覚に身を委ねていると、反吐が出るほど不快な気分で、確かに自分には何か表現すべきことがあり、しかしそれに応えきれないという自分への焦燥から、いたたまれぬほどに何かを描かねばならないという強迫観念に襲われることで、普段は根を下ろしたように動かぬ尻を叩かれるのは良いことだとは思うが、普段つい進んでしまうところをなんとか抑えている好きな銘柄のワインも、今日は子供の頃に近所の藪医者から出された散剤のように苦く不味く、無理に飲み下しても全く酔うこともできない。話すことが面倒で普段友達と遊ぶことはほとんどないし、またそれを求めてもいないのに、ただ自分はそうであっても、誰かが私のことを現実に存在しているのだと感じていて欲しいと闇雲に熱望し、無性に人恋しく、知人たちと馬鹿みたいに笑い転げて全てを忘れて泥酔し、冷たい路上で一人死に絶えることができるなら幸せなのだと、果たしてそれが理想なのかどうかも判別が付かぬ妄想に捉われ、なれぬ手つきで親しくも無い知人に連絡し、飲みに行く約束を交わした。きっと楽しいだろうが、そのときには私は普通の感覚を取り戻しており、馴れぬ行動の結果、家路に付く頃には疲れきっているだろう。私は常々、自分は他人に対して全く興味が無く、人と交わることを馬鹿馬鹿しいとすら考えているような気がするが果たしてそうなのだろうか。こんなやるせない日には、私は誰よりも私以外の全ての愛すべき人間たちに興味を抱き、普段の生活を、仕事を、趣味を知りたがり、同じように自分のことも彼らに知ってほしいのだと、素直に認めても良いような気がしてくる。