忘れえぬ恋


備忘録…についてのコメントをcheenaさんがつけてくれた日記はわけあって(というかうっかり)消してしまいましたが、その美しい響きは私を捉えて止みません。このブログを久しく読み返すことは無かったけど、ちょっと遡って見ると備忘録としての機能を多少は果たしているかもしれません。これまたわけあって(うっかりではなく)今、私は少々酔っているのですが、酔うと殊更に心に去来するものが増幅し、要らぬ機能はとことん愚鈍になり、冴えるべき感覚が鋭敏に研ぎ澄まされる、そんな瞬間があります。ただそのときに全てを注ぎ込まねば単に酔いつぶれ、翌朝には記憶喪失です。私にとって酔うことはそれなりに意味のあることです。ただそこで思い返されるものは意味のあることとは限りません。しかし意味を判定できるのは、もっとずっと後のことなので、酔い始めの今、思い返されることを備忘録としてしたためておきます。
今日会社の人と、「男性は心に絵を掛け、女性は心に音楽をかける」という話をしました。好きな人(たち)に対する意識の例え話です。この話を最初に読んだのは確か高校生でした。自分はどうなの?と聞き返されたとき、高校生当時私の答えた返事が、唐突に思い出されました。高校生のとき聞き返してきた友達に私は、「音楽をかけながら絵を眺める」と答えました。たくさんの絵をあれこれ気移りしながら眺めつつも、決して消えること無くか細く心に流れ続けた通奏低音はいつでも私を弱らせ、混乱させ、息苦しいほど愛させ、その初めての身を焦がすほど愛しぬいた恋は実を結ぶことも無く終わったのですが、代償行為と言うとあまりに相手に失礼だし、実際そんな感覚をいだいていたことはないものの、現実にはかなわぬ彼、Kはあまりに実際の相手としては夢々しく非現実的で、ひとたびKの傍を離れると「現実的な恋」で間に合わせていたのです。Kと会えなくなってからもKという音楽は消えることなく、実際彼の奏でたチェロの調べや白い指先は、事実、他の男性と愛し合っているとしても、何年も何年も消えることなく私の心に音楽を満たし続けていました。浮気というのではなく、彼が心にいる状態が、私という人格そのものだったのです。今現在、まだ彼を愛しているかと問われれば、愛していたという想い出は残っている、という程度のものかもしれません。ただ彼が唯一私のために残してくれたG線上のアリアの調べと、様々に絡み合い関連付けられたバッハのVaダブルコンチェルトが突如響きだし、脳裏に流れ始めたそのあまりに美しすぎる珠玉の音のひとつひとつに圧倒され、立ち上がることすらできなくなりました。
私はずっと、彼を愛さなくなることを恐れていたのです。彼を愛していない自分は自分ではないのではないかと、自分が変わることを恐れ続けていました。私は本当に変わりました。まず純粋ではない。あの頃のように純粋に人を愛していない。これほどまでに堕ちて尚、私はこの音楽を忘れ去ることに躊躇を感じているのです。