存在の堪らない希薄


母が山口県の祖母のところへ怪我の見舞いに行き、今日帰ってきた。晴れ上がった空は眩しく初夏の気配を含み、それらのキーワードにまた再び同じ既視感を覚える。私がまだ随分小さいときに山口の祖父母の家に行くことは途絶えた。残されたわずかな記憶は祖父と歩く姉の後姿。母の養母である祖母と私に血縁は無い。ただ幼い、母の子供たち・・・というか幼い姉にはきっと愛情があったことだろうと思う。再び訪れたのはもう私が大人になってからのことで、祖父は既に亡くなっていた。その時初めて、子供の頃の記憶の違和感が理解された気がした。祖母にとっての家族は亡くなった祖父と母だけで、母の子供は、少なくとも私は、他人のようだった。
新幹線を降り立った私の母へ、私の子が駆け寄って抱きつく。出入り口で邪魔なこった。離れた場所から陳腐な芝居でも見てる気分で、その光景を見遣る。あの母とは?血縁があるはずだけど常に他人感が付きまとう。それは父にしても同じ。父も母も、彼らの孫がよく喋るのを聞いて、一体誰に似たんだろう?とよく不思議がっている。未だに人に紹介するとき、この子は人と殆ど喋らない子だから、と私の事を紹介する。喋らないのは家族とだけだとは知らず。成績が悪く、素行も悪く、無神経で大雑把で、突然何かがぶっ飛んだように大暴れしてブチぎれる出来の悪い私に、時に涙ながらに姉の優秀さと儚さを語る。繊細で頭脳明晰な彼女に起こる数々の不幸、それが私に起こらなかったのが彼らにとっての不幸だ。
私から愛さなければ、そんな愛など存在すらしないように何事も起こらない。私が愛さなければ他人は私を愛さない。ときに愛したとしても、それを感じてもらえない。そして、愛すべき存在など大していない。それが出来損ないである私の宿命なのだ。全く無色透明な私を見つけてくれる唯一の存在が娘。私はこの子にこんな、愛情についての希薄な感覚、人生の大半を覆う不吉な感覚を与えたくはない。けど、その方法は分からない。