姉死して、後


姉が自死して、約十日が過ぎた。
姉が面白味もない退屈な人生を終えたことに、気の毒だったという以上の感情を見つけようと、子供の頃のことを色々思い返してもみるが、やはり一向に姉との(良い)エピソードというものは見つからず、悲しいとも、生きていて欲しかったとも、全く思わずにいる。


私の大学時代、霧に閉ざされた夜の釧路湿原をオートバイで走ったことがある。そのときの恐ろしい闇のことは今でも鮮明な記憶として残っている。何もない空間へどこまでも吸い込まれるような闇は、何かが立ちはだかってできた闇とはその濃さも、深さも、全く違う。姉と私との関係はまさにそのようなもので、この四十年間をただ空白に過ごし、そこに埋めるもののない闇は、例えようもなく深く濃い。私たちの間には、こうなった以上は幸いなことに、何もない。


葬儀も全く馬鹿馬鹿しい茶番だった。もっとも、誰一人として姉と心を通わせ思いやっていた人間はいないわけだから、真に悲しむ人がいなくて当然なのだが。芝居がかって泣き喚く母親と、その白々しさに嫌悪を催す父方の親戚とのあいだで私は針のむしろに巻かれ、とにかくこの茶番を終えさえすれば全てが丸く収まる、姉はやっと死んでくれたのだから、と、それしか考えていなかった。


姉の骨は自宅に帰り、五十日祭まで安置される。魂が宿っているので忌明けまで遺品の整理はするなというが、父のときとは違い、その遺された品々に何らの感慨も愛着もない。ただ面倒。もしそんな魂が宿っているとするなら、穢れるので触れたくないとすら思う。
悲劇の親を演じた母に至っては、一人で行っても仕方ないから私と一緒に行ってお参りをすると言う始末。先立った我が子の骨を前に『一人で行っても仕方ない』などと言える神経は、やはり私には到底理解できない。一事が万事この調子で、私は永久に母親を理解しないし、したくもない。姉は死んでも結局、一人でいる。


今日、姉が死ぬ一週間前まで入院していた精神病院へ、お礼のために向かった。姉の主治医はとても心を砕いてくれていた。再発して姉がひどい状態になったとき、頼る人のなかった私に、『娘を社会復帰させたいと言っていたお父さんの言葉を遺言と思ってこれからもしっかりお姉さんの治療をしていきたい』と言ってくれて、そのとおりに行動してくれた。


私と向かい合った先生は、お父さんとの約束を何も果たせなかったと言って泣いた。退院させる理由なんてなかった、あのまま拘束してでも入院させておけば良かった、治療を続けて社会復帰して欲しかった、と。
誰一人生きて欲しいと願うことのなかった姉を、唯一、生きていて欲しいと思ってくれる人がここに存在していた。精神疾患の家族を持つ者には、その人にしか分からない苦悩がある。私はそんな家族として当然姉のことを、同じ死ぬなら早く死ねと思っていた。そしてそんな私の気持ちを、親戚たちも分かっていた。だからみんな姉が死んだことに、安堵の気持ちを抱えている。でもここに、掛け値なしに姉が生きていることだけを願った人がいて、その存在に、私は思いがけず大きく心が揺れた。多分、悲しい、と思った。


もうこの先生に会うことはないだろう。この顔で廊下に出るのは恥ずかしいから、という先生を残して、私は一人で外来室を出た。