汚れたジャージ

発表会に出ることになった劇団員M君のレッスンは、私の時間と違うためほとんど会うことは無いのだが、昨日のレッスンは一緒だった。1時間ほど遅れ駆け込んできたM君は、息を切らし髪も乱れ、芸大生のように薄汚れている。着替えて出てきたらその白いジャージは白いがゆえにより一層、汚れが目立つ。がっしりとした体躯で足も太く毛むくじゃら、背も低くバレエとはおよそ結びつかないプロポーションの彼に、衣装の男性用ジャズパンツが届いた。先生からこのパンツの直しを頼まれた私は、彼がこのパンツに着替えるのを待っていた。一瞬更衣室を見てためらった彼だが、女性が使用中でしばらく使えそうもなく、その場でジャージを脱いで着替えた。紺地になんかプリントされているくたびれたトランクスが、振付に入っている側転をしても決してずれない彼の眼鏡同様、あまりにも身体の一部として当然の佇まいなので、トランクス姿の彼を誰も気に留めなかった。


私は高校と大学で油絵を専攻していた。身だしなみに気を遣う子とそうでない子の差が激しいのが油絵や彫刻の人たちだったような気がする。デザインの子達はおしゃれで綺麗な(汚れていない)子が多かった。私は高校〜大学の7年間を徐々に、気を遣わなくなっていった。初めはほんの少し絵の具が付くときれいに落としていたが、次第に気にならなくなる。やがてほとんどの服に、程度の差はあれ、どこかしら絵の具が付いているので、しまいには普段着なのか作業着なのかも定かではなくなり、そのうち持っている服のほとんどが作業着のように汚れた。大学4年あたりになると、着替えもせず作業着のまま買物に出かけたり通学したりした。油の臭いは馴れていない人にとって相当気になるだろうから、きっと私の臭いも相当なものだったと思う。綺麗な身なりの同級生も「汚いグループ」の身なりを気にすることはほとんど無かった。いやなら自分さえきれいであればそれで良かったのである。
卒業してから社会に馴染むまでには少々時間を要した。バイト先の同僚が私に、「袖に絵の具付いてるよ」と指差し笑ったが、それは私にとって付いているうちにも入らない、小さなものだった。そこで初めて、私は絵の世界から離れてしまったのだなと痛切に感じた。普通の人は、この程度でも汚れていると思うのか、と。バイトは事務職で絵の仕事とは全く関係なかったし、周りの人たちもそういう系統とは無関係の生き方をしてきた人たちばかりだった。学生時代の仲間は散り散りになり、付き合いも途絶え、続けて描いている人はほとんどいなくなっていた。


M君が何をやっている人かは知らないが、とりあえず学生ではなく、バイトをしており、そして小劇団の団員だ。むしろそんな彼が小奇麗な格好をしているほうが私にとっては気になることだ。彼の汚れたジャージは私がまだ希望を抱いていた頃、身なりも気にせず夢ばかり追っていた頃、今思い出せば全てが虚しかったあの頃への羨望にも似た思いを、ふとよぎらせた。
アメリカ製Mサイズのジャズパンツは結局20センチほど裾上げしなければならない。舞台が終わればレッスン用にもできる無難な黒いパンツだが、こんな調子に乗ったものを着て練習する彼は見たくないなと密かに思っている。褒め言葉にはならないだろうが、彼には汚れたジャージが良く似合う。