長崎二人旅〜その1

Odiel2007-10-15



9月24日から4日間、娘(3歳)と二人で長崎に行って来た。若い頃は日本各地を貧乏旅行したものだが、もう数年旅行に出たことは無かった。本当に久しぶりの今回ではあったが、幼児と一緒ってことで自分の思うようにはいかず、でも初めての娘との旅は、それはそれなりの楽しみがあった。
幼児と共に過ごすには4日間という日程は決して長くないので、次はいつ来れるとも分からない念願に念願であった長崎行も、ひたすらツーリストに徹した観光地めぐりに終始した。しかしずっと長崎市内の同じ場所に滞在し、時間に追われることも無くゆったりと過ごすことができたので、さして巨大な都市でもない長崎市の外郭を知るにはまあ事足りたように思う。

1日目
まず私は昔からどうしても飛行機が好きになれない。離陸や着陸の緊張感とか、気流がどうやらこうやらで揺れるあの感覚を思い出すだけで気分が悪くなる。脳裏をよぎるのは沈まぬ太陽上を向いて歩こうばかり。1時間半で到着するのは魅力には違いないが、次に行くときは、時間的に余裕があるなら絶対列車で行きたい。
中部国際空港への列車には乗り遅れ、チェックインでチケットが無く、飛行機自体も遅れ、長崎空港についてバスで長崎市内に移動し、ホテルに向かおうとしたとき、荷物を一つバスに置き忘れたことを思い出す。なんだか散々な出足だったものの、日常を離れる旅ってことがどんなことなのかを、徐々に思い出す。そういえばいつもこんなもんだったかもしれない。
荷物が手元に戻り、まず行ったのは原爆資料館。政治的な思想や正義や悪の概念は立場によってどうとでも変わるもので、そんなものの介在など許さない純粋に悲惨な事実が淡々と展示されていた。あるいは大いに日本的な立場の平和主張なのかもしれないが、そんな下らない詮索は、一瞬にして蒸発し消え去ったであろう名も無き人々の魂の前に、何の意味も無い。十二分にアビリティレベルが下がり切ろうとしたとき、3歳児の意味不明発言などが結構な助けになり、私が初日からいきなり狐憑きのイタコみたいなノイローゼになることは回避された。
生まれも育ちも生き様も平坦極まりない名古屋人の私、長崎は坂の町だと痛感しつつ、名古屋なら山の手の高級住宅地でしかあり得ない強烈な坂道を当たり前のように現地の方々が行きかう中、突然家並みから頭を出していた浦上天主堂へと向かう。こちらでいう寺社仏閣のように、当たり前にそこここ点在する天主堂の面影を見つつ、ここは長崎なのだと改めて胸を熱くする。浦上天主堂は原爆で倒壊し、現在の建物は再建されたものだそうだ。次に向かった爆心地では、象徴的なモニュメントが設置されている。曇り空からにわかに太陽が照りつけ、汗が全身を伝い、日陰でボリボリお菓子を食べながら冷たい飲み物をゴクゴク飲みつつ、モニュメントの上空を見遣り、この日の堪らないほどの平和について思いを致す。人類史上最悪な事象の一つがこの空で起こったとは信じられないほどの美しい青空だった。続いて向かったのは爆心地から程近い平和公園(あの有名な像の作者について彫刻的な視点から、天から与えたもうた豊かな文章表現で腹心の友、KYOUSUKEさんが解説なさってます。是非ご一読を。http://barayume.exblog.jp/5950605/)。広場には日を遮るものが何も無く、9月の末ながら日本の熱帯化が進む今は、60余年前の8月当時は斯くあらんと、真夏を髣髴とさせる焼け付くような日差しが照りつけていた。初日は早朝から移動に費やしていたこともあり、これにてスケジュールを終了する。食事を済ませ、ホテルに帰ってきたのは18時過ぎ。ここからチビをお風呂に入れたりしなきゃいけない。普段は自分が母だと実感することは殆ど無いのだが、狭い部屋の狭いユニットバスでこういうときはマジ親って大変と愚痴りまくる。子は早々に夢の中、母は次の日のスケジュールを立てようとガイドブックを開こうかどうか、というところで意識不明。何も決めないまま、二日目に突入する。