神仏混合


私は日本において多数派であるように、やっぱり宗教には熱心ではない。中学生〜大学生の間にわかキリスト者となり、信者と呼ぶには程遠いものだったと思うがただ、非常に熱心であったとは思う。実家は神道でホントか嘘か、ひいじいさんは京都あたりの神主だったらしいが、私はというと中学のとき半端にグレちゃって喧嘩に盗み、会話もなく口を開けば罵るだけ、呼び出しばかり食らわせていた親に、改宗したい・・・なんて言うのは思春期の私をして絶対不可能。聖書を見つけられ、まさか宗教なんてやってないだろうな?(←この言い方が最悪)なんて言うのでウルセーークソジジイ!!なわけねえだろうが!!なんて大喧嘩に発展したことも。ちゃんと聖書読めば親を大切にもしたでしょうにね。教派に属せないただの神道の子供な私は、日曜日のミサが終わった後で人気のなくなった教会に入り込み、信者さんたちに見つからないよう、声をかけられないよう、ひっそりと神に祈った。何を祈ったのかは殆ど覚えていないが、中学生のときは高校に受かるように、高校のときは大学に受かるように、菅原道真でいいんじゃね?的な神頼みをしていたのは覚えている。大学に入ってからは完全に方向を見失って精神的に著しい変調をきたしたので、魂の救済を。ただその熱心さはある日を境にプッツリ消え去る。1分前まで全身で信じていたのに、雷に打たれたようにある瞬間、この次の瞬間から、信心が消えた…そんな瞬間があった。今でも鮮烈にそれを覚えている。特別なことではなく、自分の部屋で唐突に。あまりにも唐突に訪れたそれはもう、神の仕業としか思えない天啓のようにも思える。試練だったのだろう。与えられたことはそれを与えるに足ると思われたのだろうか。結果、信心は失われた。しかしそうなる事すら、神はご存知だったはずだ。
まあそれはどうでもいいんだけど、日本には仏教と神道が複雑に絡み合い、また民間信仰山岳信仰とか自然信仰、なんかあらゆる要素がごちゃまぜになった独特な宗教観がある。神は自然物のあらゆるものに宿り、生あるものが死すれば仏になり、天上の仏様にも色んな種類があって、神様はいたるところにたくさん、存在している。そのおおらかな考え方は宗教のありかたとしてどうなのか分からないけど、少なくとも日本人たる私の中には色濃く影響している。一神教の宗教を信じたが、キリストはたくさんの神の中の一人であると、どこかで思い続けている。神の定めた罪があり、その罰が地獄だとするなら私は即死、即地獄行の罪人だが、ただ世にはあまりに理不尽なことが起こり、この汚れきった私ではなく、まるでその私の罪の代償かのように無垢な命がどこかで失われていく矛盾に耐えられる精神を持った人ばかりではない。誰もが遠藤周作のように信心について深い考察をめぐらせた上で信じ続けられる強靭で深い精神性を持った人ではないのだ。そんな弱い凡人な私にとって、神はたくさんいるという好都合な面だけとらえた狡猾な考えはもってこいなのだ。本当に私は罪深い。
なんか色々考えてましたが考えがまとまらなくなりました。そう、親には2度、どうしようもなく言わなきゃいけないことを仕方なく言いました。どちらも揉めに揉めました。1度目はバレエをやりたいと。2度目は子供ができたので結婚すると。ただ言った甲斐あり、どっちも投げ出すことなく継続してます。キリスト教徒になると言ったらどうなっていたんでしょうか。