生かされる日々

どっかで書いたかもしれないが、私は運命論者である。物事は全て運命という敷かれたレールの上を走っているだけだと信じている。信じられないほどむごい事件。例えばわが子を殺された親は?または殺された子自身は?それが運命だとしたら一体何のために生きてきたのか。手塩にかけて育てた実の子供がアキバで無差別殺人をしたら?一体何の意味があって神にその道を走らされているのか。遠藤周作ですら解けなかった謎は私には解けん。でも、運命などと言うものを信じる根拠が何もなくとも、私はそれを信じている、現時点では。
私には死ぬ場面が何度かあった。本来なら死んでいておかしくない場面とでもいおうか。小学生のとき、海で溺れた。高校生のとき、トラックの前に飛び出した。大学生のとき、スキーで木に激突したような気がする(軽く記憶喪失)。社会に出てからは、バイクに乗ってたら車と衝突して転倒した。でも生きている。生かされているのに、その意味は全く分からない。私は何故生まれ、そして死ぬために生かされているのか。何故死ぬ場面は何度となくあったはずなのに、それを回避し今日まで生きているのだろう。今日も無為に生きた。死人と同じように生きた。ただ死んでいては体験できない、死ぬほど退屈で凡庸な今日という日を生きた。何故なのだろう。今どうして生かされているのだろう。